「自然」とは 身近だけど むずかしい言葉 その2「自然」と「環境」
「しぜん」と「じねん」
「自然」を考えるときに気をつけないといけないのが、【その1「しぜん」と「じねん」】で書いたように「しぜん」と「じねん」のちがいかもしれません。言葉の由来を考えると、「しぜん」という時は「“人間が作ったもの”以外のものとその環境」と考えるほうが合うでしょう。
しかしこのブログでは「しぜん」の意味は人間の作ったものとそうでないものは分けません。
たとえば里山のように人間の手が加わっていても、直接管理されない様々な生き物がいるような状況も「しぜん」、つまり「自然」としたいと思います。
「自然」と「環境」
このように「自然」という言葉は、日本人が持つイメージとちょっと離れた意味を持っています。最近「環境保護」のように「環境」という言葉も目立つようになってきました。
「環境」であれば、人間が作ったものであってもその中に含まれます。
人間が作った田んぼや里山でも、「環境」と言ってしまえば「自然」よりも意味がはっきりします。
「環境保護」というような言葉が使われるとき、人間が今ある「環境」を守ることを意味しますが、それは必ずしも人間が現れる前からあった「環境」だけではありません。
人間が作った「環境」も含まれます。
![近畿では自生していないシラカンバの人工林[神戸市立森林植物園]](http://blog-imgs-67.fc2.com/i/k/i/ikimono8000/123501.jpg)
近畿では自生していないシラカンバの人工林[神戸市立森林植物園]
「環境」を守るということ
たとえば、最近「環境を守る」として注目を集めている場所に、田んぼや里山があります。それらはいろいろな生き物たちの生活の場所となっています。
しかしどちらも人間が作ったもの。
田んぼや里山を作るために、元からそこにいたのに追い出された生き物もいっぱいいます。
なかにはその地域で絶滅してしまった生き物もいるかもしれません。
そういう意味では田んぼや里山は「環境破壊」の結果という性質もあるかもしれません。

なんだか「環境」という言葉は人間にとって都合よく使われているような気もします。
もとに戻せる?
そんな田んぼや里山の多くは、人間の寿命より長い間続いてきたもの。しかも多くの場合広い範囲を占めます。
そんな場所を元に戻せるのでしょうか。
それはわかりません。
まわりに人の手が入っていない環境が残っているのなら、そこから生き物たちが移ってくるかもしれません。
しかしそういう環境がなければ元に戻ることは難しいしょう。
自然に任せても、田んぼや里山のままにしても、本来の姿でないのは同じこと。
どっちの状態を守るのがいいのでしょうか?
それともなにか「第三の状態」というのがあるのでしょうか。
![元からの環境が残されていると思われるブナ林[金剛山山頂付近]](http://blog-imgs-67.fc2.com/i/k/i/ikimono8000/123502.jpg)
元からの環境が残されていると思われるブナ林[金剛山山頂付近]
環境を維持するということ
同じ種の生き物であっても、住んでいるところで微妙に特徴がちがうことがよくあります。そういう地域的な特徴は、失われると元には戻りません。
時として田んぼや里山にそういった生き物が住んでいることがあります。
人間が作った環境であっても、そこに固有の特徴を持つ生き物がいるのであれば、守っていかなければならないと、今は多くの場合考えられています。

めずらしい生き物を守るためとして、自然の移り変わりを人間の力で壊していくことはいいことなのでしょうか。
冴えたやり方は?
そもそも「こうあるべきだ」というはっきりとした答えはあるのでしょうか。どの状態の「しぜん」を守るのか、それともそのまま変化していく「じねん」に任せるのか。
それは、「環境」」という言葉にごまかされず、一人一人が一つ一つ未来のために考えていかなければならないことのように思えます。
おそらく、「いかなる時でもこうすべき」という方法はないのだと思います。
それぞれの状態状況に合わせて、もっともいいと思える方法を取っていかなければならないのが現実でしょう。
大切なことは、目立つ部分だけに注目するのではなく、できるだけ広い視野で考えていくこと、なのではないでしょうか。


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